みなさんこんにちは~ひつじです。
今日は私の一番好きな作曲家「ショパン」の生い立ちについてお話しします!
現在のクラシック界でも大人気ゆえ、私なんかより詳しい方、いっぱいいらっしゃると思いますが、少しでも参考にしていただけるように、私の学んだことをひとつ残らず網羅的に書いたのでぜひご覧ください!
フレデリック・ショパンのプロフィール
- 名前:フレデリック・フランソワ・ショパン(Frédéric François Chopin)
- 生年月日:1810年3月1日(諸説有り)~1849年10月17日
- 出身地:ワルシャワ公国(ジェラゾヴァ・ヴォラという村)
- ジャンル:前期ロマン派
- 職業:作曲家・ピアニスト
- 家族構成:父(ニコラ)母(ユスティナ)姉(ルドヴィカ)妹(エミリア)妹(イザベラ)
フレデリック・ショパンの人生
ショパンの幼少期
1810年 ショパン0歳
3月1日。
フレデリック・ショパン(以下ショパン)は、ポーランドの首都ワルシャワの近くの小さな村、ジェラゾヴァ・ヴォラに、スカルベク伯爵の家で、住み込みの家庭教師をしていたフランス人の父ニコラと、ポーランド人の母ユスティナとの間に生まれました。
生後まもなく、音楽好きの母が歌うポーランド民謡を子守唄に聴いて育ちます。
また、10月にショパン一家は8年間住んだスカルベルク伯爵の家を離れ、ニコラの仕事の都合でワルシャワに移り住みました。
1814年 ショパン4歳
この頃、初めてピアノに触れます!
誰にも教わっていないにも関わらず、姉のルドヴィカが弾く練習曲を弾きだす天才っぷりを発揮します!
1816年 ショパン6歳
天才っぷりを知った両親はショパンを音楽家にしようと考え、ジブニー先生のもとで、音楽家になるための勉強を始めさせます。
1817年 ショパン7歳
ショパンが初めて作曲した「 ポロネーズ第11番 ト短調(遺作)」を自費出版!
天才作曲家として注目を浴び、次に作った行進曲も様々な人に演奏され、ショパンの名はワルシャワの人々に広く知られるようになったのです。
1818年 ショパン8歳
この年の2月、ラジービワ宮殿にて公開演奏会デビューを果たします!!
この時ショパンは、チェコの作曲家の「協奏曲 ホ短調」弾いたそうです。
これ以降、ショパンのピアノはますます大評判となり、貴族のサロンや、宮廷の夜会にひっぱりだこの毎日となったそうです。
!マメ知識!
教養のある母と教師の間で育ったショパンは常に礼儀正しかったそうです。
大人たちにどんなに褒められても謙虚な姿勢を崩さず、幼いショパンの演奏に謝礼を差し出されても決して受け取ろうとしなかったそうです。
1822年 ショパン12歳
この頃になるとショパンはジブニー先生のもとをはなれ、当時のポーランドの一流の音楽家、エルスナーの指導を受けることになります。
そのエルスナー先生からもショパンの才能は高く評価されています。
!マメ知識!
エルスナーはポーランドの伝統的な音楽を大切にしようとする、国民主義音楽の先駆けとなった一人でも知られ、音楽の教育者としても優れた人物です。
学校生活と妹について
1823年 ショパン13歳
「一流の音楽家になるためには、様々な勉強をしてバランスのとれた成長をすることが大切である」
という父の考えで、9月にワルシャワ高等中学に入学します!
1824年 ショパン14歳
夏休みに友人に誘われてシャファルニアに行って、旅先で経験したことを「シャファルニア通信」とし、手書きの新聞にして家族に送っていたそうです。
そこで「マズルカ 変イ長調(作品7-4の初稿)」が作曲されました。
1826年 ショパン16歳
7月、ショパンは高等中学を優秀な成績で卒業しました。
そして9月からワルシャワの音楽員に入学し、ポーランドの古い音楽を生かした「マズルカ風ロンド ヘ長調 作品5」を作曲しました。
そんななか、春頃から妹のエミリアの病気は悪くなり、喀血を繰り返すようになりました。
1827年 ショパン17歳
10月、エミリアはショパンのピアノの演奏を聴きながら亡くなったそうです。
その後、悲しみを紛らわすかのように、ショパンはますます音楽に打ち込むようになり、「ノクターン第19番 ホ短調 作品72の1(遺作)」や「 葬送行進曲 ハ短調 作品72の2(遺作)」を作曲しました。
悲しみに暮れるなか迎えた夏休み。
スカルベルク伯爵夫人に誘われて行ったラジービウ大公の別荘で、娘たちにピアノを教えることで、悲しみに沈んだショパンの心は癒えていったそうです。
ショパンの初恋、そしてポーランドとの別れ
1829年 ショパン19歳
4月。
この頃ショパンは同じワルシャワ音楽院の同級生のオペラ歌手、コスタンツィヤに恋します。
内気なショパンは打ち明けられない胸の思いを、「 ワルツ第13番 変ニ長調 作品70の3(遺作)」という曲に込めたそうです。
また、7月にはワルシャワ音楽院で最優秀成績を納め卒業しました!
これをきっかけに、以前から気になっていたウィーンに行き演奏会で成功したショパンは、ワルシャワに帰国しました。
1830年 ショパン20歳 part.1
3月、ワルシャワ国立劇場にて、音楽家として正式にデビューするショパンのコンサートが開かれました!
そのなかで、コスタンツィヤに捧げる曲として「ピアノ協奏曲第2番 ヘ短調 作品21」を演奏したそうですが、ショパンの初恋は実ることはなかったそうです。
!当時の状態!
当時のポーランドは18世紀後半に国の力が弱まり、隣り合っていたろロシア、ドイツ、オーストリアの三国によって、何度も分割されたり、支配されたりするようになっていました。
ポーランドは、ナポレオンがヨーロッパで起こした、たたかいの終結するために開かれた、ウィーン会議の取り決め、1815年のウィーン体制によって土地の大半をロシアに奪われていました。
ところが1830年、フランスで7月革命が起こったり、ベルギーが独立したため、ポーランドでもロシアから独立しようとする動きが激しくなり、国内が混乱してくると人々の目は、音楽などの芸術に向けられることはなくなってしまいます。
若者は独立の運動に燃えていたので、いつ革命が起きるかわからない緊迫した状態だったことがうかがえますよね。
ショパンの周囲の人々は、才能あふれるショパンの音楽家としての将来を大成させるためにも、国の外に出るように強く勧めたのでした。
ポーランドを愛してやまないショパンは、国が大変な時期に祖国を去ることに後ろ髪を引かれる思いをいだきつつも、パリへ旅立つことを決意します。
国を去るその日までショパンは、「ピアノ協奏曲第1番 ホ短調 作品11」「 練習曲 ハ長調 作品10-1」「 マズルカ第3番 ホ長調 作品6-3」など数多くの曲を書き、ポーランドで最後の演奏会を開きました。
演奏会ではワルシャワ音楽院の先生やコスタンツィヤも出演し、華やかな舞台となったそうです。
いよいよポーランドをはなれる11月2日。
ショパンはコスタンツィヤからお別れにもらったリボンをカバンに入れ、ポーランドの土を持ち、父の塾の生徒でショパンの親友、ティテュス・ボイチェフと、エルスナー先生がショパンの為に作ったカンタータを演奏する音楽院生に見送られながらウィーンにむかうのでした。
革命失敗 ウィーンからパリへ…
1830年 ショパン20歳 part.2
11月の終わり頃。
ショパンはティテュスとともにウィーンにたどり着きました。
新しい生活がはじまることに胸が膨らむ一方、ワルシャワではついに市民が独立のために立ち上がり、ロシアのコスタンティン大公が追放されるというところまできていました。見かねたティテュスはワルシャワに帰ってしまいます。
またオーストリアはポーランドの分割に関わっていたので、ワルシャワ市民のことをよく思いません。
そのためウィーンで演奏会を開いても前に訪れた時と違い、人々は冷たく当たるのでした。
そこで芸術の都、パリに移り住むことを決めるのでした!
1831年 ショパン21歳
ポーランド人のショパンには、なかなか旅券がおりず、出発できたのは7月でした。
ウィーンからパリに向かう途中でワルシャワ市民の革命が失敗したことを知ります。
そこでショパンが祖国の悲劇を深く悲しんで作ったのが「練習曲 ハ短調「革命」作品10-12」だったのです。
ショパンはその後、一度もポーランドに帰ることができませんでしたが、彼の心には、常に祖国への熱い思いがみなぎっていたことが作風からもわかりますよね。
パリに着いたショパンは様々な芸術家や音楽家と出会います。
ポーランドの詩人ザレスキや、ミツキェヴィチにハイネ。
ロッシーニ、カルクブレンナー、ケルビーニ、メンデルスゾーン、シューマン夫妻…
特にフランツ・リストとは年齢が近く親友になったと言われています。
!マメ知識!
この時代、ロマン派の芸術が最盛期を迎えようとしていた時期でした。
著名な音楽家との交流はもちろんのこと、そうそうたる画家や文学者が次々と作品を送り出しています。
1832年 ショパン22歳
内気で演奏会があまり好きではなかったショパンでしたが、生活のために演奏活動を始めます。
旧知のポーランドの貴族の後援もあって、2月26日にプレイエルホールにてデビュー演奏会が開かれ、ショパンの音楽は絶賛されました!
しかしせっかく開いた演奏会も収入はほとんどなかったそうです。
!マメ知識!
ショパンがデビュー演奏会をしたホールは、ピアノメーカーのプレイエル社の所有している建物で、プレイエルピアノの柔らかい音色と軽いタッチが、「どんな指のニュアンスにも答ええてくれる完璧な楽器」と絶賛していたほど好きだったそうです。
しかしイギリス出身の銀行家でヨーロッパ1の大富豪、ロスチャイルド家の夜会で演奏したことをきっかけに、パリの上流階級の人と付き合うようになり、ショパンの生活は大きく変わりました。
高級アパートを何部屋も借り、使用人を雇い、上等な服に、自家用馬車まで持ち、社交界の花形となり、経済的にも自立したと言われています。
!マメ知識!
当時のパリのサロンは、単なる社交の場ではなく、一流の芸術家の交流の場でもありました。
1833年~1834年 ショパン23歳~24歳
この時に多くの演奏会に出演し、ポーランドの民族舞曲を基にした「マズルカ」などの楽譜も初めて出版されました。
レコードもCDもなかったこの時代には、自分の楽譜を出版することが作曲家として世に出る第一歩だったのです。
楽譜の出版で一人前の音楽家としても認められるようになったそうです!
1835年 ショパン25歳 part.1
夏。ボヘミアの温泉地カールスパートで久しぶりに両親に会いました。
とても楽しい3週間を過ごしましたが、
これを最後に、ショパンは二度と両親と会うことはなくなりました。
マリア・ヴォジンスカとの恋
1835年 ショパン25歳 part.2
ボヘミアの温泉地で両親とあった帰り、ショパンはドレスデンのヴォジンスカ家の長男アントンを訪ねました。
そこでショパンの昔の生徒、マリア・ヴォジンスカと再会します!
25歳のショパンは16歳のマリアに強く心を惹かれます。
パリに帰る前には後に「別れのワルツ」と呼ばれる名曲、「ワルツ第9番 変イ長調 作品69-1(遺作)」を捧げていることもわかっています。
1836年 ショパン26歳
パリに戻ってもショパンのマリアへの思いは募ります。
そしてこの年の夏、ボヘミアのマリエンバートでふたりは再会しまし、ショパンとマリアは婚約をするのでした。
その後、ショパンは血を吐き倒れるなどして体調を崩すも、マリアとの文通で愛を育んでゆきます。
しかし、たびたび届いていたマリアからの手紙は徐々に途絶えがちとなり、やがてぱったり来なくなってしまいます。
マリアの母は、体が弱く貴族でないショパンと結婚することをよく思っていませんでした。
手紙が来なくなった原因が母の影響なのか、はたまたマリアの心変わりなのか、理由はわかっていないそうです。
!マメ知識!
ショパンはマリアからもらった手紙の束を封筒に収め、「我が悲しみ」と記しまとめています。
体調の悪化とジョルジュ・サンドとの出会いと別れ
失恋の痛手に加え、病気も悪化し、ショパンは身も心もボロボロになっていたでしょう。
そんななか新たにショパンを支える人物が、リストの愛人であった、ダグー伯爵夫人のサロンで出会ったジョルジュ・サンドです。
サンドはショパンより6歳年上の有名な女流作家で、ジョルジュという男性名を使い男性の服装をしていました。
また、別れた夫との間に息子と娘の二人の子供もいたこともわかっています。
ショパンはそんな男まさりなサンドのことをあまり良くは思っていませんでしたが、母のように優しく、暖かく包み込む大人の女性であるところに次第に心を開き、心の傷も癒えてきたそうです。
1838年 ショパン28歳
このときショパンとサンドの仲はパリ中の噂になっていました。
そんな世間の目から逃れるため、またショパンの健康のために地中海のマヨルカ島を訪れます。
「風の家」という別荘を借りて、島での暮らしが始まりますが、島が雨季に入ってしまい、ますますショパンの結核は悪化してしまったそうです。
またこの当時結核は不治の病としてとても恐れられていたために、家主さんはショパンたちを追い出すのでした。
追われるように山の修道院に移り住みます。
しかしそこでの暮らしは、寒く近くに店もない不便なものだったので、ついに島を離れる決意をします。
不幸続きのマジョルカ島での生活と思われましたが、それでも「前奏曲」「バラード」「ポロネーズ」「スケルツォ」など、ショパンの最高傑作とも呼ばれる数々の作品が多く作曲されたのでした。
1839年 ショパン29歳
6月。
サンドとショパンはノアンにあるサンドの別荘に移り住みます。
1840年~1843年 ショパン30歳~34歳
この4年間をふたりは、春から秋はノアンで、冬はパリで過ごす生活がスタートします。
ノアンの別荘にはサンドのたくさんの使用人がおり、生活を豊かにしてくれました。
また庭には草花、野菜、ハーブが植えられ、木立の間には散歩道があったり、毎日の食卓には、自家製のジャムや新鮮な野菜、バランスの考えられた料理が並んだそうです。
そして広大な牧草地や、草原に囲まれて日中は心地の良い風がふき、夜には満天の星が見える美しいところだったと言われています。
そのためショパンの病気は少し落ち着きをみせ、「ワルツ」や「幻想曲」「三つのマズルカ」などの素晴らしい作品が次々と作曲されました。
この頃が二人は一番幸せな時期で居心地のよい家庭生活を送ったように思えますよね。
1844年 ショパン34歳
5月。
ショパンの父ニコラが亡くなった知らせを受けます。
ひどくショックを受けたショパンは、落ち着きをみせた病をさらに悪化させてしまいます。
それでも、身を削るように作曲を続け「舟歌」「幻想ポロネーズ」「チェロソナタ」など数々の作品を作曲しました。
1847年 ショパン37歳 part.1
この頃になるとサンドとの間柄は、お互いの思想や芸術観の隔たりで揉めるようになってしまいます。
またジョルジュも娘の結婚問題などで反りが合わない上、兄弟も仲が悪く、家庭的なトラブルの複雑な絡みあいで家庭関係は崩壊しかけていました。
ジョルジュはショパンに疲れ、喧嘩の後二人は7月にあっけなく別れてしまったそうです。
ショパンの最後
1847年 ショパン37歳 part.2
サンドと別れたあと、ショパンは何をする気力もなくしてしまったと弟子たちは言っていたそうです。
それでも生活のためにピアノを教え、作曲いそしむ毎日を送ります。
1848年 ショパン38歳
2月。
プレイエルホールで6年ぶりにパリで最後の演奏会をひらきました。
ショパンは力を出し尽くし、観客も熱狂したと言われています。
その後すぐパリに政変がおこり、人々は音楽どころではなくなってしまいました。
そこで生徒だった貴族のジェーン・スターリングに演奏旅行に誘われ、ショパンはサンドと会えないパリにいても仕方ないと、最後の気力を振り絞って4月にイギリスに渡りました。
イギリスでは病状の悪化をおして夜会に出席したり、ヴィクトリア女王の前で演奏したりもし、もちろんイギリスでも大評判となりました。
また、汽車に乗って遠いスコットランドへ行くなどし、行く先々で歓迎されたそうです!
しかし結核に犯された体調はどんどん悪くなり、やがては血を吐き、階段も上がることができなくなるほど寝込んでしまいます。
そうして疲れ果て、やっとの思いでパリに戻ります。
11月。
起き上がるのも大変なショパンに、弟子の貴婦人が最高級の住まいを用意し、一番仲のよかった姉のルトビカに看病をしてもらいました。
また、イギリスに招いたジェーン・スターリングは匿名で大金を送り、ほかの弟子たちは、ショパンの好きな花束を抱えて毎日のようにお見舞いに訪れたそうです。
1849年 ショパン39歳
10月17日午前2時。
たくさんの見舞い客に囲まれて、ショパンは39歳の短い生涯を閉じました。
10月30日には、マドレーヌ寺院で葬儀が行われました。
葬列者は3000人にものぼったそうです。
葬儀ではショパンの作曲した葬送行進曲や、モーツァルトの「レクイエム」が演奏され、誰もがフランスが誇るポーランド出身の天才作曲家ショパンの死を悲しみました。
そしてパリ、ペール・ラシューズ墓地へ、ショパンの愛したポーランドの土で埋葬されたのでした。
ピアノの詩人 ショパン
ショパンは「ピアノの詩人」と言われているように、わずかな歌曲と、数曲の室内楽を書いただけで、その生涯をほとんどピアノ曲だけを作曲しました。
ピアニスト兼作曲家として、ワルシャワやウィーンでデビューし、ほかの演奏家とは全く違った独創性と音の響き、繊細なタッチ、レガート奏法の美しさなどで絶賛されたそうです。
しかし、子供の頃にならったジブニー先生から、ピアノ奏法の基礎を学んだだけで、その後は全く独学でピアノを勉強したそうです。
また後年パリへ行き、カルクブレンナーはショパンの作品と演奏を高く評価し、三年間自分のもとで勉強すれば、大演奏家になれると保証したのでした。
ショパンはカルクブレンナーの演奏には深い感銘を受けたものの、三年間は長すぎる上に、カルクブレンナーのコピーにはなりたくないと、その後誰にも師事しませんでした。
ショパンはその時既にピアニストではなく、作曲家としての道を歩もうと固く決心していました。
それでもカルクブレンナーは、ショパンにいろいろ助言を与え、パリでの演奏会に協演するなど、助言を惜しまなかったそうです。
演奏家としてのショパン
あの当時、リストのような派手なテクニックで聴衆を圧倒して、大喝采を受けるピアニストが活躍する一方で、ショパンの比類のないピアノの響きと軽やかな指のしなやかさ、美しく歌わせる旋律に、人々は深い感銘を受けたと言われています。
しかし18年間のパリ生活で、ショパンが出演した演奏会と公開演奏会は、わずか19回しかありませんでした。
ショパンは大会場で演奏するよりも、知的で芸術的な人々の集まるサロンでピアノを弾くほうが好きだったと言われています。
それはショパンが完璧主義であることと、オーディエンスを前にすると極度に緊張してしまう性格であったこと、病気がちだったこともその原因の一つに思えますよね。
またショパンの音楽を聴く人のなかには、ピアノ演奏を趣味とするから、プロ並みの腕前の人もいました。
そのため演奏が終わると、高額なレッスン料にも関わらず、教えてもらいたいと頼みに来る人がたくさんいたそうですが、弟子入りを許されたのはほんの一部だったそうです。(私も教わりたい笑)
そしてショパンはピアノ教師として、気が向けば弟子たちに、大変根気よく辛抱強くレッスンしたそうです。
弾き方や考え方についても、
「技術を習得することは、指を無味乾燥に訓練することではなくて、よく聴くことが大切である。」
「もともと指は、それぞれ太さも長さも違うのだから、それを十分生かした上で、粒の揃った響きを作ること、運指法が大切であること、ピアノを弾きたければ、歌の勉強をしなければいけない。」
といったことを、繰り返し話したそうです。
この言葉は、私も肝に銘じたいくらいいい言葉だと思いました笑
ショパンの恋愛から私が感じたこと
ワルシャワ時代のコスタンツィヤへの初恋から、マリアとの婚約と破局では、コンチェルトやワルツなどに想いを込めた作品が作曲されていましたよね。
このふたりに比べ、私はサンドとショパンの出会いは、ショパンの創作人生に大きく影響していると思います。
男まさりな雰囲気を持ち、知性に富んだ、生活力のあるサンドと、病弱な繊細な芸術家、ショパンの生活は、お互いに分かり合えないような部分だったり、ぶつかり合うこともあったように思えます。
しかしサンドが母親のようにショパンの病気を看病し、寄り添う役割を果たしながら、この関係はショパンの短い人生のうち、約9年間も続きます。
サンドとの生活では、マジョルカ島やノアンの別荘で、ショパンは心ゆくまで創作活動に没頭することができました。
「プレリュード」「バラード」「スケルツォ」「ソナタ」など、どの曲をとっても最高傑作と言える作品を完成させていますよね。
死に際こそ二人が会うことは叶いませんでしたが、ショパンの人生になくてはならない大切な人物であったのだと思います。
ショパンの作曲にかける思い
長年ショパンと暮らしたジョルジュ・サンドは、ショパンの作曲している時の様子を、次のように「わが生涯の歴史」に書いています。
ショパンの創作は、自然に生まれるもので思索したものではない。ピアノに向かって全曲が浮かんできたものもあれば、散歩をしながら思いついたものもある。しかし、それを楽譜に仕上げるのはたいへんな作業だった。ああでもない、こうでもないと厳密に吟味して、自分がはじめに内面的に感じたことを具体化させるのに苦労したのだった。それが思うようにいかないと、終日部屋に閉じこもり、泣きながら右往左往し、ペンを追って捨てたこともあった。同じ一小説を100回も繰り返して書きかえ、書いては消し、消しては書き、一ページを仕上げるのに六週間もかかった…
【出典:ショパン(生涯編)属啓成著・音楽之友社より抜粋】
この文章を読むとわかるように、生まれながらの才能に加えて、己の肉体をすり減らしてまで、作曲に熱中する原動力はどこからくるの?と思いたくなってしまうくらい超越していますよね。
そしてショパンは世間的な富や名声には全くの無縁でした。
ただひたすら音ひとつひとつに詩情と情熱をこめ、己の音楽を追求して一生を終わりました。
ショパンの曲は、クラシックが馴染みのない人でも1度は聞いたことのあるポピュラーな曲であって、楽譜をのぞくとさほど難しそうに見えない曲であっても、限りなく奥が深く、いつ聴いても飽きることがありません。(これは主観?笑 でもそれくらい素晴らしい)
どの作曲家にも言えるのかもしれませんが、こうして数百年にわたり幾千もの人々に愛される超大ヒット曲をつくったということは本当に偉大ですよね。
おわりに
いかがでしたか?
ショパンの作曲した曲は、私にとって思い出深い曲が多くあって、たくさん本やお話を読んだり聞いたりしたので、とんでもなく長くなってしまいました。笑
最後に私のおすすめのショパンのワルツ全集を。
最後まで読んでくださって本当にありがとうございます!
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